尾森ノート:守りたいもの

【守りたいもの】
 
守る、というのは死語か。
「守りたい」という言葉は知っている。だが、その守るということの実際はどこにあるのだろうか。
先日の治療クラブ後に、日野先生がエピソードを添えて、「守りたいから強くなる」という話があった。
これは強烈に頭の中が揺さぶられた感じであった。
守りたいもの?
その言葉を恥ずかしながら持ったことがないように思う。
もちろん、他者に対して「こうしたい」、「どうしたい」はある。しかしながら、その基底に「守りたい」があったかというと、そうではない。
基本的に止まっていることができないから、変わり続けることにしか興味がなかった。
その中で、「守る」=止まっている、というような妙な固定観念が私にあったのだろう。「守る」というような言葉を意図的に使用することはなかった。
であるから、日野先生のいう「強くなる」ことと「守りたいものがある」ということの関連が意識下に置かれることはなかった。
私としては、そう考えたことがなかったが、その話を聞いた時に「あ、間違いなくそうだ」と分かった。
 
好奇心のままに生きるのは、構わない。その好奇心を成就させるならば、様々な工夫や成長が必要だからである。であるから、好奇心を軸において、行動していくのは、自己成長には欠かせない。そのように歩んだ道が、もし誰かの役に立つのであればそれは有益だろう。
こう考えていた。
しかしながら、この考えにはどこか欠落している部分があるようにずっと思っていた。
それが今回の「守りたいもの」である。
 
少し話が飛ぶが、私は「技術」というものを考えるにあたって、廃れてしまっては滅びてしまうもの、そういった文化のあるものの中でしか、技術が伝承される必然性がないと思い、宮大工の方の本を手に取った。そこには、過去の時代に建立された神社仏閣の形を、そのままに修理修繕するための心得や技術が紹介されており、またその教育の仕組みが本来的な「見習い」であったため、やはりこの道しか技術習得などあり得ない、と悟った。
 
ただこの背景にある宮大工のこころまで、味わってなかった。
意識的にも、無意識的にも、どこか美談のように、抽象化してしまっていたのかもしれない。
彼らの心には、きっと伝統を「守りたい」があったはずである。
それが自身の仕事、そして成長に対する責任を生んだに違いない。
人の成長、技術の伝承に着眼して、本を読み進めていたが、根本的に大事なのは、他の部分にあった。
 
そのこころで周りを見渡せば、見え方も何もかも変わる。
気づくまでに時間がかかりすぎた。
もうこの世に生を受けて32年も経つ。
気づけば居ても立っても居られないのは、本性なのだから、性には逆らわないでいこうと思う。
 
今までもなんども大切なものに、気づかされてきた。
その気づきは、私の成長の足がかりとなってきた。
 
「人」というのは、思う以上に素晴らしいものである。
それは自分も含めて、だ。
おそらくここが欠如してしまえば、他者を大切になどできないだろう。きっと、他者を大切にする自分を守りたい、などと思うはずがない。「自分」と「他者」を分断して捉えている、というのがミソだ。自分も他者も、一人の人間として見えば平等であり、そこに何らの違いもない。生態学的な、あるいは社会的なヒエラルキーは単なる概念であって、「いのち」を基盤にしてみたときに、そこに違いなどないだろう。それぞれにはそれぞれのいのちや人生があるのであり、私もまた然りである。
だからまずは自分のことを一生懸命やれば良い、とそう思う。
 
自戒のために提言する。
 
自分を守るのではなく、どんな自分を守りたいのか。
相手の何を守りたいのか。
 
守りたいものがある、ということが大切なのではなく、守りたいと思う心が自分に芽生えた、ということを知ることが重要だろう。それは間違いなく尊いことである。
 
なんと言おうと、私は守られてきた、のだ。
次には私がそのことを考えるべきだろう。
守りたいものは、抽象ではない。言葉に置き換えたとしても、それには実体が重要である。常に具体的にありたい。
もしそんな道をこの先歩けるとするならば、それこそ、何でもしてやろうと決意する。

尾森ノート8

実感という幻。

朝起きたときに、自分自身が生きていることを実感する。このときに使用される実感というのは、自分自身の感覚を通して世界を認識した結果であり、常に実感というのは、本来的には認識なのだ。

実感というのは、そこに意識が向くからこそ、得られるものである。しかし、そこを意識するというのは、主体的な行為であるため、そこに生じた「感覚」とは別物なのである。

 

 

尾森ノート7

もし何かを得ることで、生きやすく感じるのであれば、それは「生きる」を何かに委ねることに親和性があるからである。
それを咎める理由はない。
しかし、それで知り得たことは、全て「いのち」が知り得たことではない。むしろ、知りうることを放棄した結果として、「知った」という仮想を手に入れるのである。

人が何かの話をする。
その話を聞いて話された内容が分かったする。
その「分かった」が生まれた時に、何を感ずるだろうか。
ここで最も低次元な「分かった」は、すでにその話を知っているということから生まれるものだろう。
なぜ、それが低次元かと言えば、その背景に言葉を個と独立させて解釈している様がそこにあるからだ。
AさんとBさんが同じ話をしたとして、なぜその意味までも同じになるのか。
それ以前に、なぜ同じような話が出てきたのか。
そこを想像する努力もせずに、耳から入った情報だけで、「分かった」になるのは、おかしいだろう。
逆に言えば、我々は想像力を働かせない限り「分かる」などということはないのだ。
客観的事実を知りうることを「分かる」と誤解することもある。
歴史上の人物の行動は、資料として残されている。
それはいわば、客観的事実である。
しかしそれが本当かはどのようにしたら分かるだろうか。
これには一つしか道はない。
当人がなぜその行動をとったかを想像することである。
この想像するというのは、自分勝手ではいけないのだ。
それこそ、数ある事象の中でその人が見えてくるまで考えた結果としての想像力でもって、想像するのである。
その結果として、過去の出来事は、現代に生きる我々の主観の中で客観的事実として蘇るのである。
その作業を通して、そしてその態度が「分かる」につながるのだ。

こうした観点からもレトリックによる理解が、実社会で有益であったとしても、ある種の哲学的観点から見れば、勝手な限界を作っているに過ぎない。そして、行動を急ぐ結果としてのものなのだろうと類推する。

なぜ、こんなことを医療者である私がいうのか。
私の理想とする医療者としての姿は、常に相手に、いのちに問いかけるものでありたいと思うからだ。
そして、そこに癒しの雰囲気が生じることが治療として最高級であり、最低限のものであろうと位置付けたからである。

尾森ノート6

基礎が大切。

 

これはどこにでもある言葉である。「どこにでも」というのは、どの業界にもという意味だ。ここで重要なのは、何を基礎として自分自身が認識するかである。ただし、初学者は半ば強制的なしつけのように、基礎を教わるが良い。なぜなら、何も分からないからである。厳密にいうと、知らないからだ。どのように取り組めば上達するのか?その訓練方法でどのようになるのか?ざっくりと自分の取り組みを理解し、そして「こうしたい」という渇望が自分から湧いてくるのであれば、改めて「何を基礎とするか」という土台から見直していくと良いだろう。

向かう先に応じて、土台を変える。そうした思考の行き来と数多の検証の中で、選んだ道のみならず、「道」を進むことにおいて重要なことを知っていくのである。

尾森ノート5

していることの明確化

物事に取り組むときに、「物事に取り組もうとする」という言葉がある。「物事に取り組もうとする」はそう思っているだけであって実際にしているかは分からない。そして、大方そう思っているだけであるから実際にはしていないのだ。

自分自身を客観視すれば、物事に取り組んでいるのか、そうしようとしたのかが見えるはずであるから、逆に言えば自身を客観視する視点を持ち合わせていないということになる。

「取り組もうとする」は自分自身に構えを作り出す。

その構えで持って、「○○したらどうしよう、こうしよう」と考える作業というのは、実際とは関係がないだろう。

実際は、そのことに取り組んで見なければ分からない。

「リスク管理」や「予測」、「時間管理」や「自分軸を通す」など、さも先々のことを分かったつもりになって、自分自身の取り組みをマネジメントするのもいいが、自分の計画通りに物事が進むということは、逆に言えば、自分自身は何も進歩していないということでもある。なぜなら、計画を立てたのは、過去の自分だろう。

その過去の自分の計画通りであるならば、何も変わっていないということではないか。

一点大切なのは、そうしようと決めたのであれば、そうすることだけである。

常に現場をそのように生きれば、その現場が自分に何かを気づかせ、様々なことを示唆する。

その方が「面白い」と思うが如何か。

尾森ノート4

【理論と論理】

理論的であると言うことと、論理的であると言うことには大きな違いがある。
例えば今起こっている現象や状況について現時点でわかるのであれば論理的に説明することは可能であるが、現時点でわからない場合は理論が必要になる。

理論というのは、実際と関係あるかは分からない。論理というのは、実際をもとにしなければ成り立たない。

そうした性質があることを理解しておく必要がある。

尾森ノート1

とにかく行動をかえろ

頭の中にあることを変えたとして現実の行動は何も変わらない。
であれば先に現実の行動を変えてしまう方が良い。
しかしながら人間には現実の行動は頭の中の自分が起こすものであるという錯覚を持っている
つまりそれは自分の意思=行動であると言う無意識的な思い込みだ。
自分自身を振り返ると言うのは、その時のどのように行動したかを言語として振り返るものである。
であるから振り返るといくことの危険性は必ず自分の思いと言うところに立ち返ってしまうことにある。
昔の自分が何を思っていようが、こうなってしまった現実をどのように弁明するのだろうか。それは過去の思いに答えを求めても何も見つからない。それでわかるのは原点に戻れたと言う1つの安心感であり、思考の産物として原点に戻るのであれば、経験など必要ないではないか。
俗に言う「ブレない」は、ブレてないかも知れないが、何も変わっていないのとは違うのか?という突っ込みに自分として回答できるか。その先にしか自分の信ずるものなど作れやしない。

尾森ノート2

目標とする人があった時に、その人と今の自分の違いを知ることは重要である。
知った後に大切なのは、その違いの原因を知ることであるが、「原因を知る」というプロセスが「考え方」を熟練しない限りやらないほうがいい。
なぜなら、安易に過去の自分自身に問題があると断定してしまうからである。

違いを知った後にやるべきことは、その目標とする人物の行動を真似てみることだ。
この「真似てみる」という作業をした時に、「真似られた」ということがあった場合、その人物の持つ要素を、自分自身も持っていたということになるだろう。
そうすると、その要素は、「その目標とする人物を介して知り得た」ということであり、これが他者を介して自身を知るということの最たるものである。

違いを知って落ち込んで何になる?
違いを知ったら、まずは真似てみたらいいのだ。
そして、真似やすいところから真似てみるというもの一つのスキルであり、その能力が開発されるから、真似できない部分に関して想像力を働かせる必要が出てくるのである。

違いを知り、原因をたどるというのは、辿ったところで、自己嫌悪に陥るだけである。
まずは真似られるところから真似るべきだ。

「真似る」というのは、大脳を持たない下等動物でも行う最も重要な学習手段であろう。
と知っていれば、なぜそれをしない?
思考活動の結果としての意味づけが、そんなに大事なのであろうか。
であれば、そうした生き方をするのもまた一つである。
その道もまた、人の道である。
ただし、現存する自分は何も変わりはしない。

尾森ノート3

自分の出来ることを信ずる必要はない。
出来ないことなど山ほどあり、そのことを知ることの方がはるかに有益である。
そして、出来ないことがあった時に、それを「何が何でも出来るようにする自分自身」を信ずれば良いのである。
自分を信ずる必要などないが、信用するに足る自分自身は創ることが出来るのである。