尾森ノート5

していることの明確化

物事に取り組むときに、「物事に取り組もうとする」という言葉がある。「物事に取り組もうとする」はそう思っているだけであって実際にしているかは分からない。そして、大方そう思っているだけであるから実際にはしていないのだ。

自分自身を客観視すれば、物事に取り組んでいるのか、そうしようとしたのかが見えるはずであるから、逆に言えば自身を客観視する視点を持ち合わせていないということになる。

「取り組もうとする」は自分自身に構えを作り出す。

その構えで持って、「○○したらどうしよう、こうしよう」と考える作業というのは、実際とは関係がないだろう。

実際は、そのことに取り組んで見なければ分からない。

「リスク管理」や「予測」、「時間管理」や「自分軸を通す」など、さも先々のことを分かったつもりになって、自分自身の取り組みをマネジメントするのもいいが、自分の計画通りに物事が進むということは、逆に言えば、自分自身は何も進歩していないということでもある。なぜなら、計画を立てたのは、過去の自分だろう。

その過去の自分の計画通りであるならば、何も変わっていないということではないか。

一点大切なのは、そうしようと決めたのであれば、そうすることだけである。

常に現場をそのように生きれば、その現場が自分に何かを気づかせ、様々なことを示唆する。

その方が「面白い」と思うが如何か。

尾森ノート4

【理論と論理】

理論的であると言うことと、論理的であると言うことには大きな違いがある。
例えば今起こっている現象や状況について現時点でわかるのであれば論理的に説明することは可能であるが、現時点でわからない場合は理論が必要になる。

理論というのは、実際と関係あるかは分からない。論理というのは、実際をもとにしなければ成り立たない。

そうした性質があることを理解しておく必要がある。

尾森ノート1

とにかく行動をかえろ

頭の中にあることを変えたとして現実の行動は何も変わらない。
であれば先に現実の行動を変えてしまう方が良い。
しかしながら人間には現実の行動は頭の中の自分が起こすものであるという錯覚を持っている
つまりそれは自分の意思=行動であると言う無意識的な思い込みだ。
自分自身を振り返ると言うのは、その時のどのように行動したかを言語として振り返るものである。
であるから振り返るといくことの危険性は必ず自分の思いと言うところに立ち返ってしまうことにある。
昔の自分が何を思っていようが、こうなってしまった現実をどのように弁明するのだろうか。それは過去の思いに答えを求めても何も見つからない。それでわかるのは原点に戻れたと言う1つの安心感であり、思考の産物として原点に戻るのであれば、経験など必要ないではないか。
俗に言う「ブレない」は、ブレてないかも知れないが、何も変わっていないのとは違うのか?という突っ込みに自分として回答できるか。その先にしか自分の信ずるものなど作れやしない。

尾森ノート2

目標とする人があった時に、その人と今の自分の違いを知ることは重要である。
知った後に大切なのは、その違いの原因を知ることであるが、「原因を知る」というプロセスが「考え方」を熟練しない限りやらないほうがいい。
なぜなら、安易に過去の自分自身に問題があると断定してしまうからである。

違いを知った後にやるべきことは、その目標とする人物の行動を真似てみることだ。
この「真似てみる」という作業をした時に、「真似られた」ということがあった場合、その人物の持つ要素を、自分自身も持っていたということになるだろう。
そうすると、その要素は、「その目標とする人物を介して知り得た」ということであり、これが他者を介して自身を知るということの最たるものである。

違いを知って落ち込んで何になる?
違いを知ったら、まずは真似てみたらいいのだ。
そして、真似やすいところから真似てみるというもの一つのスキルであり、その能力が開発されるから、真似できない部分に関して想像力を働かせる必要が出てくるのである。

違いを知り、原因をたどるというのは、辿ったところで、自己嫌悪に陥るだけである。
まずは真似られるところから真似るべきだ。

「真似る」というのは、大脳を持たない下等動物でも行う最も重要な学習手段であろう。
と知っていれば、なぜそれをしない?
思考活動の結果としての意味づけが、そんなに大事なのであろうか。
であれば、そうした生き方をするのもまた一つである。
その道もまた、人の道である。
ただし、現存する自分は何も変わりはしない。

尾森ノート3

自分の出来ることを信ずる必要はない。
出来ないことなど山ほどあり、そのことを知ることの方がはるかに有益である。
そして、出来ないことがあった時に、それを「何が何でも出来るようにする自分自身」を信ずれば良いのである。
自分を信ずる必要などないが、信用するに足る自分自身は創ることが出来るのである。

直感想造研究会とは

直感想造研究会では、参加者の方々がそれぞれの「現場」において、していることを明確にするということを主たる目的とします。それに際し、明確化する方法を直接的にお伝えするのではなく、私の考えやワークを通して、ご自身の力で、明確にしていただきます。そうでしか自分の道が開けることはありません。

「ご自身の力」と称したものの最たるものは、皆さんの感性です。感性というのは、改めて対象化すると特殊なものに思われがちですが、大変に日常的なものです。ですから必ず皆さんにも備わっています。感性で捉えられるものは初めのうちは曖昧です。「なんとなく」という曖昧性に、排他的な社会と成りつつありますが、この「なんとなく」を突き詰めていく道しか、具体性を追求することは出来ません。

その「具体性」はひとまず「自分自身にとって」ということで構いません。ご自身の道は、ご自身の力で具体的に進んでください。

直感想造研究会にはもう一つ重要な目的があります。皆さんの現場は、人を始めとした有機物が対象です。私たちの仕事は、他者との「関係」において成り立つのです。そのことを知らねばなりません。

「知らねば」と表現するのは、関係性があると思うことが重要なのではなく、「関係性」ということの実際を、自分として「知る」ことが現場で役立つ自分になれるか否かを決めるからです。

「人それぞれ」という言葉があります。そして、「人それぞれ」であると思っている人や言っている人は多くいるでしょう。しかしながら、「人それぞれ」を知っている人は多くはありません。それは「人それぞれ」を本当に考えたことがないからです。「関係」を知る人は、「人それぞれ」を知っています。

物事の正しさや誤りというのは、抽象的な問題です。そして、正しさや誤りを気にするというのは、自身の具体的問題からの逃避であります。そのことを自分として知る必要があります。先の「人それぞれ」で言えば、そのことを本当に考えたことがないから、正しさや誤りといった抽象的問題にすり替えてしまうのです。

金輪際、「正しい」や「誤り」といった尺度は捨ててください。代わりに、「美しさ」という見方を身につけてください。「美しい」は感性の象徴です。

自分自身のしていることに正しさを見出すのではなく、「美しさ」を見出してください。していることが明確な人、その手、その論理は大変に美しいものです。「美しい」を知らないのであれば、知る努力をしてください。それは直感想造研究会という場でなく、あなたの現場でです。直感想造研究会は、あくまで「研究」の場です。それはあなた自身の「研究テーマ」を研究する場です。実際のワークや他の参加者との交流を通して、「あなた」は「あなたの道」を具体的に進む手がかりをつかんでください。それがこの直感想造研究会を主宰する私の願いです。