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分かるとは (尾森ノート7)

もし何かを得ることで、生きやすく感じるのであれば、それは「生きる」を何かに委ねることに親和性があるからである。
それを咎める理由はない。
しかし、それで知り得たことは、全て「いのち」が知り得たことではない。むしろ、知りうることを放棄した結果として、「知った」という仮想を手に入れるのである。

人が何かの話をする。
その話を聞いて話された内容が分かったする。
その「分かった」が生まれた時に、何を感ずるだろうか。
ここで最も低次元な「分かった」は、すでにその話を知っているということから生まれるものだろう。
なぜ、それが低次元かと言えば、その背景に言葉を個と独立させて解釈している様がそこにあるからだ。
AさんとBさんが同じ話をしたとして、なぜその意味までも同じになるのか。
それ以前に、なぜ同じような話が出てきたのか。
そこを想像する努力もせずに、耳から入った情報だけで、「分かった」になるのは、おかしいだろう。
逆に言えば、我々は想像力を働かせない限り「分かる」などということはないのだ。
客観的事実を知りうることを「分かる」と誤解することもある。
歴史上の人物の行動は、資料として残されている。
それはいわば、客観的事実である。
しかしそれが本当かはどのようにしたら分かるだろうか。
これには一つしか道はない。
当人がなぜその行動をとったかを想像することである。
この想像するというのは、自分勝手ではいけないのだ。
それこそ、数ある事象の中でその人が見えてくるまで考えた結果としての想像力でもって、想像するのである。
その結果として、過去の出来事は、現代に生きる我々の主観の中で客観的事実として蘇るのである。
その作業を通して、そしてその態度が「分かる」につながるのだ。

こうした観点からもレトリックによる理解が、実社会で有益であったとしても、ある種の哲学的観点から見れば、勝手な限界を作っているに過ぎない。そして、行動を急ぐ結果としてのものなのだろうと類推する。

なぜ、こんなことを医療者である私がいうのか。
私の理想とする医療者としての姿は、常に相手に、いのちに問いかけるものでありたいと思うからだ。
そして、そこに癒しの雰囲気が生じることが治療として最高級であり、最低限のものであろうと位置付けたからである。