直観想造研究会の構造

直感想造研究会は下記のコンテンツにより構造化されています。

尾森クラブ

「尾森クラブ」では、していることの明確化に様々なワークを通して取り組んでいきます。「していることを明確にする」の入り口は、自分が何をしているかを知ることです。また「何をしようとしているのか?」を具体として知っていく必要があります。これは言葉尻だけを捉えると、分かったような分からないような聞こえ方になりますが、極めて単純なことです。「どの目的地にいくのか」を決めなければただの散歩になります。また「今現在どこを歩いているのか」を知らなければ、迷子になるだけです。

行きたい目的地を決めて、今現在の居場所を知る。そして、目的地にどのように行くかの戦略を考えて、実行する。こう書けば、非常に単純な構図になりますね。ですが、物事を単純化して考えることは、具体的な一歩を踏み出すのには有用です。ただし、重要なことは、その道を歩くのは「自分自身である」ということです。自分自身というのは、その時々に感じることもあれば、思うこともある。感情が起伏し、挫折するかもしれない。生き身としての自分は、様々な出来事に対して色んな反応を示します。ですから、計画通りにことが進むことはほとんどありません。ですが、計画通りに「物事を進める」ことはできます。それは自分自身の「意思」がリードするのです。ここがポイントです。計画通りにことが進まないのは、様々な事態が起こるので、どんなに想定したとしても、予期せぬことは起こります。その予期せぬことが生じたときに、諦めるか否か。「何としてでも達成したい」という意思を持っているかどうかが鍵です。こう書くと精神論のように聞こえますが、そうではありません。例えば野生の肉食獣が、なかなか捕獲ができないからといって、生きることを諦めて餓死することを選ぶでしょうか。きっと死ぬまで捕食することをやめないでしょう。その行為を見て「根性がある」などと思いますか?もちろん、どう思うかは自由ですが、肉食獣の立場から見れば、それは「根性がある」云々ではなく、生きるための自然な行為なのです。実は「していることの明確化」の最も重要なポイントはまさにこのことです。つまり、その「していること」が自身の「生きる」に直結したことであるか?ということです。それは単純に生物学的な生き死にだけでなく、思想的な生き死にもあります。例えば、表現者として生きていくには、自身の納得のいくものが作りたい。そうでなければ、生きている意味がない。そう認識しているからこそ、「していることの明確化」に必然性が生まれるのです。片手間に行なっていることと、人生をかけて取り組むこと、そこに違いがないのだとすれば、なんとも味気のない話です。

どんな方法も、どんな知識も、個人の「意思」がそれを必要とする方向に向いていなければ、役に立ちません。方法を、知識を、役に立てる自分になるか。そんなことがワーク中の姿に表れます。ですから、行為そのものが精神であるということです。だからこそ、「自身のしていること」をしっかりと捉えることと「目的地を明確にすること」が「していることの明確化」に重要なのです。

単に小手先の表れを変えるだけでは何も変わらない。そんなことを知っていくのも、何かを成し遂げるためには重要です。

治療クラブ

治療クラブは、療法士に限らず、「治療」というものを真剣に考えるためのクラブです。この会の参加条件は一つ、対話をすることです。「治療」というものについては、現時点での私がとやかく言えたものでがありません。「治療とはこうである」と言い切るのは、おこがましくて出来ません。というのも、私が「治療とはこうだ」としても、それが現場で役に立たなければ意味がないからです。逆に言えば、現場で役に立つように工夫ができる。そのために考える材料と、「治療行為」に求められる能力などを、多角的に検討する場、それが治療クラブです。対話というのは、お互いが「話したいことを話す」ではありません。それは独り言を、多人数で言い合っているだけです。そうではなくその場に来た参加者同士だから生じたもの、それは予期せぬ方向に進むかもしれない。お互いの出した結論に、お互い納得いかいないかもしれない。一つの問題提起から波及的に新たな問いが生まれる。そうした有機的なやり取りを「対話」と呼びます。こう称すると、まさに「治療」というのは「対話」そのものであると思いませんか。

一方的に何かを教える、あるいは教わる場ではありません。あるのは、対話だけです。この対話をするには、少なからず「していることの明確化」に取り組んでいなければ、口から出るのは思いつきばかりになります。基本的には自由参加ですが、対話が不可能であると判断した場合は、参加を自粛していただく場合もあります。もちろん、対話できる自分になりたいという方は歓迎です。いま現在がどうかということにはこだわりません。それこそ、参加したい意思を表示していただきたいと思います。