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自分で考えない(尾森ノート11)

この表題については、概ね悪として語られることが多いように思う。
私の今年の一つのテーマに【自分で考えない】がある。
自分で考えなさい、とは言うが前にも記述したように、全ての言葉は借り物だ。その言葉に実感を持っていたとしても、裏を返せばその言葉を持つから、実感を「その言葉」で表現していると言うことになる。
ここはかなり難解かもしれないが、我々がいかに「感性」というものが素晴らしかったとしても、それを表現する言葉が稚拙であれば、その「感性」はいかにして現れるのか。
もちろん、私も臨床での実感としてうまく言葉には出来ないが、上手くいくと言うことは多々ある。
昨日も片麻痺の男性の脛骨のねじれに対して、ふと肋骨をいじったら脛のねじれが取れて、歩き方が劇的に変わってしまった。おっさんめっちゃ喜んでた。
この因果の想像は出来るが、そこに明確な理論、ないし論理は持ち合わせていない。
つまり、知らない、分からなくても、出来てしまうことはある、と言うことである。
敬愛する神田橋條治先生の書物にも「流れで患者さんに助言したことが思いの外効果的であることが多く、その場合は、その助言をもとに考え方を再編する」と言うような言葉があった。
ここからが味噌だ。
実感は常に言葉にはとらわれない性質がある。つまり、この場合の「流れ」や昨日の状態に言葉は入り込まない。
あるのは実感だけである。
だから、実感があれば言葉はいらない、と考えるのも一つだ。
しかし、この「実感」を得ているのは私なのか?と問うとどうなるだろう。
つまり、ここでの「実感」に関わるのは私だけでなく、対象との関係であり、実際にはそちらが全てである。
と言うことは、自覚している「私」が実感をしているのではなく、あくまで実感があるだけなのだ。
もっと言うと、「実感がある」とした段階で、私が出てくるのであるから、そのような認識も本来的にはない。
そう考えると、「実感」と「言葉」の間にある隔たりと言うのは、「実感」と言うことに対する認識の誤解によって生じるものであるとも考えられないか。
感覚を大切にする、という言葉がある。
ある意味でその通りであると思うが、「感覚を大切にする」と言う明確な言語指示を自分自身にしている以上、それはその指示によって捉えられる世界を認識していると言うことになる。
だから、感覚を大切にする、と言う世界観で生きていると言うだけであり、感覚を大切に出来ているかどうかは分からないではないか。
そこに自分なりの実感がある、と言うのは、「自分なり」と言う域を出ない。
ここのジレンマに取り組むためには、【自分で考えない】を意図して行う以外にないだろうと思う。