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応援することで循環する(尾森ノート12)

以前、ポッドキャストで「今現在やりたいことがないのなら、周りを応援しよう」と提案した。コロナ禍で企業の倒産や失業者は増加する一方であるから、「需要と供給」のバランスで考えると、まずは外出しない、できない、外食しない、できない、サービスを利用しない、できないということにおいて、需要が減る。需要が減れば、今の世を見渡せばわかるように、供給側は収益の点で打撃を受けるので、店じまいや規模縮小していくしかなくなる。すると、全体で見たときの供給能力が低下する。経済面で考えれば、この供給力の低下は最も芳しくない。デフレの最果てに起こりうることではあったが、このコロナ禍で一気に加速した。政治経済の話は門外漢であるから、論ずることは控えるが、少なからずこの供給能力は維持したいと思うのは、一般的なことだろうと思う。今現在供給されているものは、多かれ少なかれ「誰かのやりたいこと」である。そのように想像することができるならば、私たちの消費は、少なからず「誰かのやりたいこと」の応援になる。消費という形で、供給する側を支援することが出来るからである。なので、「やりたいこと」が出来ずに二の足を踏んでいる感じがあるのであれば、自身の消費が誰かへの支援になっていることを認識して、気軽に初めてみると良いと思う。少し視点が変わるだろうと思う。というより、そこが重要なのである。「やりたいことがない、見つからない」というのは、根本的に視点が自分にあるからである。前にも書いたと思うが、娯楽が許される時代である。生きる「ため」への必要性というのはどこまであるだろう。ある意味で平和ボケこそが「やりたいことがない、見つからない」という原因でもある。なぜなら、「そんなことを言っていても生きられている、あるいは働けている」という事実があり、実はそのことをきちんと認識できていないがゆえの不満でしかないからだ。もちろん、断定できるものではないが、あえて断定しておく。裏を返して考えると「やりたいことをすべき」だとか、「自分らしく」だとか、煌びやかな寝言が蔓延している風潮の中で、その言葉に悩まされているだけなのかもしれない。だからこそ、視点を変えるべきなのだ。別に自分自身がやりたいことをやる必要などないではないか。すでにエネルギーを持ってやりたいことをやっているように見える人や物を応援するのも一興であると思うことも柔らかな発想を持つことに寄与する。ぜひ周りの人や物を応援してほしい。そして、私自身がそのことをしていく一存である。前置きが長くなったが、このクラブ内において皆を応援するというのはどういうことだろう。その問いへの回答の一つに、私が皆から質問に回答するのではなく、私が皆へ質問をさせてもらう、というのが良いと考えている。これまで、様々な問いや質問を受けた。その回答に影響を受けてくれた方も少なくはないと思う。私としては自分の立ち位置として、それで良いと思っていたが、結局はどのような問いを持つか、どう問いを立てていくかで回答が得られるのであれば、問いを持つ持つ、立てるという点を支援する方が良いだろう。そして、「問う」ということは相当に神経を使う。だから、それをやろうと思う。