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守りたいもの(尾森ノート9)

【守りたいもの】
 
守る、というのは死語か。
「守りたい」という言葉は知っている。だが、その守るということの実際はどこにあるのだろうか。
先日の治療クラブ後に、日野先生がエピソードを添えて、「守りたいから強くなる」という話があった。
これは強烈に頭の中が揺さぶられた感じであった。
守りたいもの?
その言葉を恥ずかしながら持ったことがないように思う。
もちろん、他者に対して「こうしたい」、「どうしたい」はある。しかしながら、その基底に「守りたい」があったかというと、そうではない。
基本的に止まっていることができないから、変わり続けることにしか興味がなかった。
その中で、「守る」=止まっている、というような妙な固定観念が私にあったのだろう。「守る」というような言葉を意図的に使用することはなかった。
であるから、日野先生のいう「強くなる」ことと「守りたいものがある」ということの関連が意識下に置かれることはなかった。
私としては、そう考えたことがなかったが、その話を聞いた時に「あ、間違いなくそうだ」と分かった。
 
好奇心のままに生きるのは、構わない。その好奇心を成就させるならば、様々な工夫や成長が必要だからである。であるから、好奇心を軸において、行動していくのは、自己成長には欠かせない。そのように歩んだ道が、もし誰かの役に立つのであればそれは有益だろう。
こう考えていた。
しかしながら、この考えにはどこか欠落している部分があるようにずっと思っていた。
それが今回の「守りたいもの」である。
 
少し話が飛ぶが、私は「技術」というものを考えるにあたって、廃れてしまっては滅びてしまうもの、そういった文化のあるものの中でしか、技術が伝承される必然性がないと思い、宮大工の方の本を手に取った。そこには、過去の時代に建立された神社仏閣の形を、そのままに修理修繕するための心得や技術が紹介されており、またその教育の仕組みが本来的な「見習い」であったため、やはりこの道しか技術習得などあり得ない、と悟った。
 
ただこの背景にある宮大工のこころまで、味わってなかった。
意識的にも、無意識的にも、どこか美談のように、抽象化してしまっていたのかもしれない。
彼らの心には、きっと伝統を「守りたい」があったはずである。
それが自身の仕事、そして成長に対する責任を生んだに違いない。
人の成長、技術の伝承に着眼して、本を読み進めていたが、根本的に大事なのは、他の部分にあった。
 
そのこころで周りを見渡せば、見え方も何もかも変わる。
気づくまでに時間がかかりすぎた。
もうこの世に生を受けて32年も経つ。
気づけば居ても立っても居られないのは、本性なのだから、性には逆らわないでいこうと思う。
 
今までもなんども大切なものに、気づかされてきた。
その気づきは、私の成長の足がかりとなってきた。
 
「人」というのは、思う以上に素晴らしいものである。
それは自分も含めて、だ。
おそらくここが欠如してしまえば、他者を大切になどできないだろう。きっと、他者を大切にする自分を守りたい、などと思うはずがない。「自分」と「他者」を分断して捉えている、というのがミソだ。自分も他者も、一人の人間として見えば平等であり、そこに何らの違いもない。生態学的な、あるいは社会的なヒエラルキーは単なる概念であって、「いのち」を基盤にしてみたときに、そこに違いなどないだろう。それぞれにはそれぞれのいのちや人生があるのであり、私もまた然りである。
だからまずは自分のことを一生懸命やれば良い、とそう思う。
 
自戒のために提言する。
 
自分を守るのではなく、どんな自分を守りたいのか。
相手の何を守りたいのか。
 
守りたいものがある、ということが大切なのではなく、守りたいと思う心が自分に芽生えた、ということを知ることが重要だろう。それは間違いなく尊いことである。
 
なんと言おうと、私は守られてきた、のだ。
次には私がそのことを考えるべきだろう。
守りたいものは、抽象ではない。言葉に置き換えたとしても、それには実体が重要である。常に具体的にありたい。
もしそんな道をこの先歩けるとするならば、それこそ、何でもしてやろうと決意する。